ちょっと私のことを・・・Ⅳ

10代後半から20代前半の悩める時代、私は進路打開?のためにいくつかアルバイトをしましたが、
その中で一番良かったのが2度に亘って計2年近く勤めた地元の新聞社「新潟日報社」だ。
前記のように正確な時期は思い出せないのですが70年代前半、編集局の庶務部で、まだファクシミリ等が普及する以前ですから(通信社では大きな機械を使っていましたが…)、記者クラブ等から記事原稿を集めるメッセンジャー的な事をやっていました。まあ雑用ですね。

時代的なものも有ったのでしょう、「ボーヤ」と呼ばれていた我々のような臨時社員に対して賞与まで出て、親元暮らしですからそれなりにお金を貯めることが出来て、1度目の後は上京し音楽専門学校へ(結局ティンパニ奏者という目標は挫折…)、2度目の後は※の経験を経てグランドピアノや電子オルガンを購入したりしました。

※この辺が複雑、通信制高校過程を履修しつつ、音楽隊を目指して入った陸自!(横須賀→東京市ヶ谷駐屯地=現在は防衛省)、意に反して射撃強化の中隊に配属されましたが(射撃の成績が良かったから…)、ある一枚のレコードを隊舎のステレオの有る会議室のような部屋で夜な夜な聴くうちに、居てもたってもいられず、音楽へ向かうべくまた退職してしまう…(きっかけとなったそのレコードとは?…後日書きます)。

ここでも(もう諦めも有ったかも知れませんが…)いろいろと我儘を許してくれた両親には本当に感謝しなければ・・・


この新聞社アルバイトで同僚だったAさん(昭和58年よりSBBB 主宰)とは音楽趣味で意気投合し、当時知れはじめていたユーミンこと、荒井由実の音楽を教えてもらい実際に演奏したりしたのだが、後々これが音楽面で影響大だったことを知ることになる。(これについても後日書きます)
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・・・


さて、紆余曲折というか、「右往左往」していた20代初め。地元に帰った私は独学で(変な)ピアノがちょっとは弾けるようになっていた。
後に講師を務めることになるヤマハでは少しだけ東京のH先生にレッスンを受けたけれど、どうも自分流が身についていたせいか、他人から教わるのが馴染めないという変な状態でレッスンは数回で止めてしまう。(H先生はジャズ・ポピュラーピアノの教則本やアレンジ譜などを沢山出されている有名なお方です)
しかし私はアマチュアバンド活動等を通してヤマハの中で「巧いピアノ弾き」という認識をされていたのが今思うと不思議。


23歳の春先、ヤマハのドラム講師のSさんから紹介されて、あるパブレストランのハウスバンド(当時は結構バンドや生演奏の入っている店が有りました)のトラ(=エキストラの略)で1か月限定でピアノを受け持つことになった。主にジャズを演奏するバンドで、しかし変な独学ピアノの私は全く役に立たず毎日メンバーから叱られていました。とくにギタリストのKさんはピアノも弾けるので私のピアノがいかに「駄目」なのかをこっぴどく説明される毎日。

私はまあ負けず嫌いな性格、悔しさをバネに昼は必死で練習し夜はバンドで演奏すること1か月。
そのハウスバンドが解散し新しいハコ(店のこと)に移ることになった際、バンマス曰く、「田中君、あと3か月くらい一緒にやってみる?」・・・
私、「はあ、えーと・・・はい!」


これで決定、嬉し哀しや、私のバンドマン人生のスタートです169.png



続く・・・





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by bossaccordeon | 2018-09-24 18:35 | 私は誰なのか? | Comments(0)

肩こりアコーデオン弾きの日常メモ・・コメントご遠慮なくどうぞ(記事と無関係でもOK)


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